「アイム・ノット・イン・ラブ」
洪水の様に分厚いコーラス・サウンドはいかにして生まれたのか?単にオーバー・ダビングを繰り返しただけではこの質感は得られない。
ロル・クレームとケヴィン・ゴッドリーが「マルチトラック・ヴォイス」
と名づけたこのサウンドは、後にクイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」に影響を与えたといわれている。
ただしクイーンのコーラスは「マルチトラック・ヴォイス」とは方法論が異なり、この後に述べるオーソドックスな(とはいっても非常に労力を必要とするが・・)方法である。
そもそもコーラスのオーバーダブ(多重録音)自体はマルチトラック・レコーダー(以降MTR)開発以後に生まれたもので、ハーモニーの構成音の1音につき最低でも3回、場合によっては5,6回ダブリングして重ねていく方法である。たとえば「ド・ミ・ソ・シ」のコーラスで、各ライン毎に3回ずつダビングすると合計12トラックを必要とする計算である。
ジャッキー・アンド・ロイ、カーペンターズ、シンガーズ・アンリミテッドなどのアルバムでは、この手法を駆使した洗練の極致ともいえるサウンドを聴くことができる。
なお当時のレコーダーは8トラック程度のスペックと思われるので、あのサウンドを生み出すまでには相当の苦労があったに違いない。
※16トラックとのこと
なおエンヤの美しいハーモニーも同様の手法で作られているが、現代のデジタルレコーディング環境では、トラック数には上限がなく、また編集テクノロジーも昔とは桁違いに進歩しているため、ボーカリストの労力は昔と変わらないにしてもマスタリングに費やす時間は大幅に短縮されていると思う。
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さて前書きが長くなったが、10ccの「マルチトラック・ヴォイス」は前述のMTRを活用した非常に個性的で画期的なアイデアに基づいている。(当時のMTRは16トラック)
「マルチトラック・ヴォイス」の発案者はロル・クレームとケヴィン・ゴッドリーらしいが、後のメンバーのインタビューをまとめると、以下のような仕組みらしい(各数量はあくまで例)。
1)3人のユニゾンで「アー」という音(たとえばド)をMTRにレコーディングしてダビングを繰り返す(回数は不明だが、5〜16回という説もある)。
単音というのがミソ。仮に10回ダビングした場合はこの時点で30人分の「ド」のユニゾン・サウンドが生まれる。(トラック数が足りなければピンポン)
2)別のオープンリール・レコーダーにこの30人分の「アー」をミックスしたものをダビング。
3)この1トラックにまとまった30人分の「ド」のテープをハサミで切り、スプライシング・テープで貼り付けて輪の状態にする(ループを作る)
4)上記を繰り返し、この曲のコーラスで必要な音程の数(12音程度と思われる)のループ・テープを作成する
5)こうして出来上がった12音分のアナログ・テープを、一本ずつループ再生しながら別のMTRに、曲の長さ分ダビングする。(合計12トラック使用することになる)
なんとも気の遠くなる作業であるが、さてここからがまたすごい。
6)こうして出来上がったマルチ・テープの12トラックを、ミキサー卓に個別に立ち上げ再生する。すると、12トラックの各フェーダーは12種類の音程
(・・A,A#,B,C,C#,D,D#,E,F,F#,G,G#・・)のボリュームをコントロールすることができる。
仮に「ドミソ」のコーラスを再現する場合は、それぞれの音程が録音されているトラックのフェーダーを上げてやる。音程毎に30人分のコーラスであるから、「ドミソ」だけでも90人分。12個のフェーダー全部上げると、360人分のコーラスがクラスター状態で再生されることになる。
7)この状態で曲に合わせて、各フェーダーを上げ下げしてハーモニーを作りながらコーラスパートを加える。というわけで、イントロやエンディングで現れる洪水のようなコーラスはダイアトニックスケール(原曲のキーはAなのでラ-シ-ド#-レ-ミ-ファ#-ソ#)の7音のフェーダーを全て上げているような状態と想像される。実際にはコーラスに加えシンセもダビングされているようだ。(poly moogか?)
補足:チェロっぽいサウンドは、コーラスパートのテープ回転数を落として再生したものらしい。
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というわけで発想自体はメロトロンなのだが、メロトロンの場合は持続時間が5.5秒〜8秒と限られている為、仮に自分たちのコーラスでオリジナルのメロトロン用テープを作ったとしてもこの曲のコーラス・サウンドは再現不可能であるし、音程ごとに定位やエフェクトを加えるということが困難である。
現在ではサンプラーやDAWを駆使すれば、似たようなサウンドを作り出せないこともないが、あの質感を再現するのは絶対に無理のような気がする。(冨田勲氏の「月の光」同様)
※このコーラスがロル・クレームの発明したギズモ(Gizmo:ギターのブリッジ装着し、モーターで擦弦して持続音を生み出すアタッチメント)によるものという解説をどこかで見かけたが、これは単なる勘違いだと思う。
※「ギズモ」に関しては、後に10ccを脱退したロル・クレームとケヴィン・ゴドレーの「Consequences」(ギズモ・ファンタジア)でそのサウンドを堪能することができる。この作品のコーラス・パートは「マルチトラック・ヴォイス」ではなく多重録音によるもの。
[…] これをアナログでやってたんだから凄いなあ。 詳しくはこちらで書きました […]